柴田雅章 (兵庫県篠山市)
 
 柴田雅章氏の作品に出会い、お付き合いが始まって30数年、数々の作品に感動し、その度に勇気と仕事への力を与えて頂きました。スリップウェアをはじめ、白化粧・飴釉・黒釉などを駆使した器は、楕円鉢、角鉢、丸鉢など、すべて多用できるものばかりです。洋も和も合わせているのです。

 土を掘ることから始まる土づくり、檜や杉の枝を燃やして作る釉薬、赤松の薪割り、ろくろ、成形……。
 窯焚きは年2回行われ、作品が生まれます。

常設作品の一覧



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    スリップウェア  (銀花第126号より引用)

                   17世紀にイギリスで生まれ、いつの間にか姿を消したやきものに、
                       再び息が吹き込まれたのは、東洋・日本であった。

   益子(濱田庄司)−倉敷(武内晴二郎)
   そして、丹波(柴田雅章)へ……。


  濱田庄司とスリップウェア

 濱田庄司がイギリスのセント・アイヴスに渡ったのは、大正9年、25歳の時である。隣人達が招いてくれる食卓に並ぶスリップウェアの中のパイ、シチュー、馬鈴薯……。
 折しもスリップウェアの再現に打ち込んでいた濱田は田舎暮らしの豊かさに目覚め、帰国後、益子に居と窯を築く決心をする。

 スリップウェアと一口に言っても、有名陶工のものから無銘品の日常雑器まである。イギリスに渡った濱田とリーチは早速スリップウェアの再現にとりかかった。17世紀末から18世紀初めにかけて作られたスリップウェアは産業革命と共に既に廃れてしまい、人々の日常からも姿を消しつつあった。古い陶片から手法を学ぶ試行錯誤、暗中模索の苦闘が続いたのである。
 濱田とリーチは競い合ってスリップウェアの大皿を作り、古い器を求めて骨董屋を廻り、田舎で細々と続いている窯場を訪ねては陶工が働くところを見せてもらったりした。
 こうしてイギリスで発見された花は日本に運ばれ、生命を吹き込まれ、絶えてしまった花が東洋で開いたのである。


  スリップウェアの「スリップ」とは

 
化粧土の意味である。イギリスの古い文献には「スリップウェア。すなわち、色違いの化粧土(泥)で模様を描いたもの」と定義されている。全面に泥をかけたところに、たとえばスポイトで別の色の泥を垂らしていく。ある濃度を持った液体と液体が出会ったとき、どうなるか。混じり合いそうで混じり合わず、そこに精妙な境界、すなわち「線」が浮かび上がる。スリップウェアの線が筆で描いたものとおのずから異なる所以である。



 柴田雅章18世紀にイギリスで作られたパイ皿を東京の古道具店で手に入れたのは、20年前のことである。丹波篠山に窯を開いて4年足らずのときであった。
 「この皿が来て、初めてやってみようという気になったんです。20歳の頃、雑誌『工藝』の写真で見て以来、ずっとスリップウェアに魅せられていたのに、実際とりかかったことがなかった。つくり方がわからないわけです。それが、この皿を見て、触れて考え続ける中で、ふと気がついた。丹波の古いものと同じじゃないか。これは“いっちん”、マーブリングは“墨流し”だって。膝を打ちましたよ。幸せ一杯でした」
 スリップウェアはイギリスではとうに廃れてしまい、忘れ去られた器である。作り方が書かれた文献があるわけでもなく、濱田庄司、武内晴二郎といった一握りの作家が試みたことは知っていても、既に故人である。永遠に思えた謎解きパズルは、「丹波」という枠を重ねてみると一気に解けた。
 1枚のパイ皿と出会って20年。スリップウェアと4つに組んだ柴田雅章の格闘は、一応の収束を得たように思われる。
 「いま自分がやっているやり方で18世紀のものもつくられたという確信をもっています。ただ、丹波の粘土を充分に生かしているとは思えない。器の形と線、白泥、黒泥、灰釉が一体となって生まれてくる美の中に、まだまだ可能性がある」

 器にはそこに暮らす人々が、そこにある素材を使ってつくった「土地の力」が込められている。粘土の力、灰の力、釜の力。いろんな力を授かって生まれてくる未知なる器たちをもっともっと見届けたい。


 

 私の家の何気なく暮らす毎日の生活の中に、柴田さんの作品の存在はことさらに大きいのです。日々繰り返し使われる彼の器は、長年使い続けても、なお新鮮さを失わないのです。本当に不思議な魅力にあふれています。その魅力の根底を私のつたない文章力で表現するよりも、作陶
30年記念「灰釉スリップウェアー・柴田雅章作品集」を是非お読みいただきたいと思います。部分的に解明できるかもしれません。過去、数十冊という本に掲載されてきた、彼について書かれた文章の奥義でもあります。

 いつも柚木沙弥郎(染色工芸家)先生が、愛情と信頼あふれる言葉を添えていらっしゃいます。師弟としてお互いの尊敬と、本物を知っている人々の深い絆に、私は羨望を禁じえません。

 柴田氏の仕事と暮らしぶりについて、柚木先生の文章を引用します。 

柴田家は丹波篠山の町から離れた山里の一軒家であるけれども、想像していたような山奥ではない。しかし、自然は家の周囲にひしめいていて、窯を築く条件、野菜を自給することも申し分ないようだ。実は私が朝食に野菜サラダを食べることにしたのは、柴田家の朝食を真似たのだった。一番私が感激したのは、初対面の家族の人達の普段の暮らしの中にそのまま招き入れられたことだった。殊に一家で囲む食卓では、その日の話題が飛びかい、私のような独り暮らしをしている者には、それは蘇生するような響きである。その中私が気づいたことは、主婦はもとより子女1人1人が家長のファンであること、そして家長の仕事を自分達も学びたい、或いはそれに協力したいという意欲が自然に伝わってくることだった。

家でも仕事場でも柴田さんのいるところには無理にまとめたのではない一種の統一が感じられるのだ。彼には仕事にも生活にも強い信念があり、落ち着きがある。これは国展工芸の祖である浜田庄司の流れを汲む陶芸家が師から学んだバックボーンといえる。浜田が生涯の指針とした工芸を生む母体となる正しい暮らしを現代問うことは難しい。何をもって正しい暮らしと呼ぶのか。さしずめ1つの家の中でも家族1人1人が違った価値観を持っていて顔を一方向に向けることは簡単なことではない。

私は思うのだが、少なくとも柴田家では作陶に打ち込む家長を中心に家族1人1人が自発的に程よい調和を作りだしているようなのだ。そうでなくては、この明るくて自由ななごやかな暮らしの雰囲気は生まれてこない気がする。正しい暮らしの定義はなくとも現に目の前に見る柴田家の奏でるオーケストラは一つの確たる答えだと思った。

柚木先生ご自身、本当の暮らし、正しい暮らしの中でご高齢の日々を楽しんでいらっしゃるお姿と言えると思います。

染色工芸家としての柚木沙弥郎先生について、今後私は勉強してみたいと思っています。私が目にした染色は私の概念をくつがえすような感動に満ちた作品でした。いずれの日にか、この場所に書ける日が来ることを願っています。