舩木倭帆

ガラスとの出会い

私にガラスに対しての感慨を一変させた出会いがありました。「つくし工芸」の展示会での出来事でした。こんな美しいガラスがあるのかと思う程に、その清澄さは私を魅了してしまいました。衝撃に似た感動でした。舩木倭帆氏のガラスとの出会いです。

その頃、先生は身体を壊されて、つくし工芸の中に「舩木倭帆ガラス研究所」を設立し、多少の製作と後進の指導にあたっていらっしゃる時でした。1980年頃の、まだ今の仕事に就く以前のことです。手に入れたいと心から願いました。「彼の作品が買えるようになるまで、ガラスには手を出さないでいよう……」固く心に決めた一瞬でした。

それから数年、いみじくも工芸の道に入ることになり、自分の力量の分に応じて作品を頂くようになりました。その当時、舩木先生はすでに地位も名声もおありになる方でした。でも、私の情熱を快く受け止めてくださいました。そして今日まで先生からはたくさんのことを作品から、お話の中から教えていただきました。

その後、先生の作品は、私共の店にはなくてはならないものとなり、30有余年、常設と展示会をしてまいりました。お客様も当時、先生のお名前はご存知なくとも、美しいガラスが花染にあることは強く認識してくださいました。ひたすら私の心を捉えた作品を熱く語り、お客様にお伝えし続けました。

長い年月を先生の作品と共に歩ませていただきました。その清澄さと美しさは私も含めて皆様の心を捉え続けていくことと思います。

商品一覧

  1. 舩木倭帆 1

  2. 舩木倭帆 2

  3. 舩木倭帆 3

  4. 舩木倭帆 4

  5. 舩木倭帆 5

  6. 舩木倭帆 6

  7. 舩木倭帆 7

  8. 舩木倭帆 8

  9. 舩木倭帆 7

舩木先生から以前とても美しい素敵な文章を頂いておりました。
私の中では繰り返し読ませて頂いた文章ですが、皆様にも目を通して頂きたくて、全文を掲載致しました。
舩木先生に魅了されていらっしゃる方々が全国に素晴らしくたくさんいらっしゃいます。
少々長文ですが、思い込み深く先生の世界に入って最後までお読み頂けますようお願い申し上げます。

昔のこと

昭和三十一年、私が大学三年の頃だったと思います。父道忠について倉敷の民藝館長の外村吉之介邸を訪ねた時のことです。私が吹きガラスを志していることを知った外村さんが「それならこれを君に上げよう」と言って下さったのがこの瓶です。

十八世紀ごろ、オランダあたりで大量に作られたバルトグラス系のピュウターの蓋つき瓶ですが、飾り気のない、しかし堂々としたこの瓶に仕事の指針を暗示されたのだと思います。

時は下って昭和三十年代の後半、心斎橋の大丸百貨店で開かれた大阪民芸協会の集まりに、当時堂島にあった「大阪たくみ」の梶谷さんに誘われて出席したことがありました。

濱田庄司、棟方志功などを中心に集まった満座の中で、外村さんから「舩木君立ちなさい」と言われ、「彼は舩木道忠の次男で、ただいま大阪で吹きガラスを勉強中です」と突然紹介されて泡を食ってしまいました。

あとで、濱田先生に「参ったなぁ、まさか紹介されるとは思いもしなかった」と言ったら、先生はハッハッハと笑って即座に「釘を刺されたのだよ」と一言仰いました。はっと思って、私はその言葉で本当に釘を刺されてしまいました。
今は昔の話です。

舩木倭帆

思い出の壜

この壜は、17世紀頃のオランダの酒壜かと思います。 私は、約30年前、長崎県の平戸島を訪れたとき、ある骨董屋の店先でこれを見つけました。

大きさの割りに小さい口ですが、形は堂々としていて気品さえあります。ひと目で私は魅了されてしまいました。

早速店主と商談しましたが、あいにく手許不如意でやむなく断念し、フェリー乗り場まで行きましたが、どうしてもあきらめ切れず、わざわざ引き返して有り金をはたいて求めました。

この種の壜は数々見ましたが、これほど美しいものはめったに見かけません。恐らく厖大な数が繰り返し生産されたでしょう。いとも簡単に吹いているように見えますが、気が遠くなるようなレベルの高い技術です。

この壜を見るたびに、自作を哀れと思わざるを得ません。

舩木倭帆

舩木倭帆

2001年秋、イギリス北部の景勝地ウィンダミア湖畔に「Blackwell The Arts and Crafts House」という美術館が開館し、オープニング記念展として、KOKTEN KORGEI 「国展工芸」が開催されました。 この展覧会は日英間の友好親善を目的とした公式行事「JAPAN 2001」の一環として行われたものです。 この国展で舩木氏が公演した内容のあらましを紹介します。

 明治維新によって近代国家としてスタートした日本は、西洋の文化をとり入れることで生活様式が変わり、ガラスは必需品となった。そこで明治政府は、殖産興業政策を推進し、1876年に東京の品川に官営のガラス工場を設け、英国人ジェームズ・スピートを招いて近代ガラス製法の指導にあたらせた。そこで学んだ技術者たちが、後に各地で事業を興し、ガラス工業の基礎を築いた。

 したがって、実用品を作ることが目的で産業として発展した日本では、ガラスは日用の消耗品であり、美術品や芸術品として考えられるようなことはなかった。昭和になって岩田藤七や各務鉱三が出現し、ガラスを芸術の域にまで高めた。しかし、彼等の仕事は、いわばデザイナーであり、紙面にイメージを描き、職人に作らせる方法であった。自分の作品を一貫作業によって、デザインから制作まで自分の手で行なうことを考え、実行したのは私が初めてであり、昭和33年(1958年)のことであった。工芸の歴史を見ても、妥協のない創作は、一貫作業に帰結している。

 日本人の美意識からすれば、人工の素材であるガラスは、土や木などの自然の素材と違って、美など存在しないと考えられ、疎外されて来たようである。加えて、実用性が主体で量産を旨として発達して来た日本のガラスでは仕方のないことでもあった。

 国画会(国展)の大先輩でもある柳宗悦は用の美を説いたが、逆に美が用を招くとも言える。実用品と言えども、人の心を惹きつける魅力なくして用途は生まれない。人の心を和ませ、生活を潤すガラスをこの手で作りたい。簡単に言えばそれが私の仕事の出発点であった。

 自然の豊かな日本では、季節が巡るたびに、自然は装いをあらたにし、四季折々の彩りや香りを届けてくれる。その変化に敏感な日本人の感性は、旬の花を飾り、旬の味を盛り、季節感を楽しみながら自然と共に生きる生活文化をもっている。

 日本人の美意識や精神文化は、そうした自然感に基づいている。
 ガラス器にも日本固有のものがあってよい。あって当然だと思う。機械による量産性と流通、それと情報化によって世界的に価値観が平均化し、生活様式も似通ってきたとは言え、まだ顕然として日本には日本の暮らしがあり、生活感覚がある。私は日本人の感性に添った日本のガラス器を作りたい。

 時代に逆行するようであるが、私の仕事は、ローマ時代の昔とあまり変わらない。すべての工程は手で行なう。道具は単純な方がいいし、技術も素朴な方がいい、作り手は謙虚なほどいいと考えている。手作りには温かさがあり、人の心を和ます優しさがある。あのバーナード・リーチは、芸術の善し悪しは温かいか冷たいかによって分かれると言った。

 ハイテクの時代を迎えて、機能ばかりが優先し、人の心は冷たく無機的になっていく。人の心が温かく血の通ったものであるためにも手作りは必要であり、人間性の回復保持のためにも失ってはならないものだと思う。

 日本では、昭和40年代の半ば(1970年頃)から手作りブームが起きた。別の考え方をすれば、その頃手仕事が消滅していったとも言える。失ってはじめてその価値に気づくのが人間の常である。

 昭和46年(1971年)、ガラスのデザイナーや作家が30名ばかり集まって「日本ガラス工芸協会」を結成した。立ち遅れたガラス工芸や日本人の意識を啓蒙するのが1つの目的であり、作家同士の研鑚が主旨だった。

 対外的な窓口が出来たことで世界のガラス工芸の現状が情報として伝わってくるようになった。1968年にアメリカで始まったスタジオグラス運動(ガラスを媒体とする表現主体の造形活動)が日本にも伝わり、昭和50年(1975年)ごろから個人で工房をもち、制作活動をする人が増え始めた。しかし、造形芸術的なアートが主流で、日用のガラスを専門に、その質を高めることを仕事としている人は今でも少ない。

 私は宙吹きという方法で、ほとんど型など補助的な道具は使わない。自分の経験と勘だけを頼りに作る熟練を要する仕事である。材料はソーダガラスで燃料には灯油を使う。助手は二人いるが、すべて手作りのため量は出来ない。作品は主に年数回の個展で販売する。具体的な仕事の内容や方法はビデオを参考にしていただきたい。

 要するに、私の仕事は加工され過ぎた現代の生活に対する1つの提案である。本当の豊かさは物質だけでは得られない。心豊かに精神的な充実がみたされてこそ真の幸せはあると思う。人のため、より豊かな生活のため奉仕する工芸、それが私の仕事の本質であり、国展工芸の真髄だと思う。

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