河井 久(滋賀県志賀町)

昭和36年より京都・五条坂の河井寛次郎・次いで河井武一氏に20年に渡り師事なさった後、昭和56年に独立。昭和59年、現在の地、滋賀県志賀町に窯を築かれました。
 呉須・辰砂・呉須鉄絵・色絵・黒釉・萩細・象嵌などを駆使なさった作品は、いつもみずみずしく、私たちに健康の美しさを感じさせてくださいます。

 作品の中に“麦わら手”という技法があります。呉須・辰砂・緑釉の細い線描きの文様は、年齢を越えて、とても「愛らしい」のです。きっと皆様にお気に召して頂けることを確信致しております。

 先生の作品の中に脈々と流れる河井家の伝統と技は、その時代の呼吸を感じ、今の生活に即応した作品に表現されています。作品の豊かさの中に、かつて寛次郎が求めたふるさとへの熱い想いを、数十年昔の姿に重ね合わせ、魂が揺さぶられるのです。寛次郎も武一先生も、今は亡きお方となられましたが、河井久氏に受け継がれた命は力強く、又、次の世代まで引き継がれることを、ひたすら信じています。

商品一覧

  1. 河井久 1

  2. 河井久 2

  3. 河井久 3

  4. 河井久 4

  5. 河井久 5

  6. 河井久 6

  7. 河井久 7

  8. 河井久 8

  9. 河井久 9

  10. 河井久 10

  11. 河井久 11

  12. 河井久 12

  13. 河井久 13

  14. 河井久 14

  15. 河井久 15

  16. 河井久 16

  17. 河井久 17

  18. 河井久 18

  19. 河井久 19

  20. 河井久 20

  21. 河井久 20

  22. 河井久 21

象がん七宝6寸皿
土味も、とても風情があります。
七宝の紋様に象がんされた6寸皿は、一番よく使うサイズだと思います。

灰釉面取皿
面取りされた趣が輪花のようでもあり落ち着いた佇まいを醸し出しています。
灰釉が美しい銘々皿に仕上がっています。
とてもお気に入りの作品です。
径15cm

河井久先生との出会い

先生の作品を頂戴させて頂く様になったのは、平成の時代に入った頃です。花染の分に応じて、作家の先生方を増やしていく中で、是非寛次郎の感動を私の店に……と思い、お願いさせて頂きました。

この年月の中で幾度となく先生の工房にお伺いさせて頂きました。なぜかお訪ねする日は気候も良く、天気も良いのです。いつも琵琶湖の湖面がキラキラ輝く中を湖西線でゆっくりと走ります。堅田を過ぎる頃から尚一層、のどかな湖に変わります。ボーっとする時間はとても貴重に思えるのです。

蓬莱の駅で先生はいつも明るくお元気に迎えてくださいます。とても素敵な工房の2階の先生のコレクションで満たされた部屋に通してくださいます。李朝の家具、堂々とした木工の家具のたたずまいの中に、先生が愛情を込めて収集なさった調度に囲まれた空間は、まさしく美の世界です。

大きな窓からの心地良い湖面を渡る風に吹かれて、美味しいお茶と羊羹を頂くのは、まさに至福の時です。先生も寛次郎もこよなく愛した故郷・安来に古くからある羊羹だそうです。先生のお心そのままのような味に、ついつい長居をしてしまいます。
寛次郎の「仕事が仕事をしている…」という表現に、若い頃の私は感銘を受けたものです。仕事の中から仕事が生まれ、いやなこと、知らないこと、できないこと、苦しむこと。そして楽しいこと……、すべて仕事に任せるのです。そんな仕事とのかかわりを先生に教えて頂きながら、共に歩ませていただけることを何よりの幸せと思っています。

2009.11.23~29 

前回より再び3年ぶりに先生の展示会をさせて頂きました。壷・花瓶・大皿・鉢などの1点ものもたくさん展示致しましたが、私共では器を主に展示会を致します。女性にとって食器となる器は生活の一部であり、日常の豊かさ・変化が喜びに変わる時だと思うからです。先生の器は使用感が抜群で、手に扱いやすい…という点にあります。そして、美しいのです。

釉薬を駆使した作品の数々です。呉須・辰砂・黒釉・鉄釉・飴釉・白萩釉・等々。形も変化に富んだ作品でした。今回特に人気のあったものは、飯碗でした。本当にこれは日常の食器です。手のひらに心地よく納まる手触りの良いとても色の美しいものです。毎日の食事を温かく包んでくれると確信致します。

もう一つの人気が、黒釉に緑を打ち掛けた作品です。中鉢・銘々皿など、黒い釉薬の中の緑の打掛の鮮やかな、そして爽やかな器です。

先生とお客様も皆様方お馴染みですので、和やかに楽しく話が盛り上がりました。
写真は店に常設してある作品の一部分です。手にとって感触、使い心地などを確かめてくださいませ。

2006.11.22~

3年ぶりの展示会をしていただきました。前回も2日間お見え下さり、昔の先生の修業時代のお話、寛次郎、武一先生の想い出話に皆様と一緒に楽しく時を過ごしました。

久先生の大らかな、くったくのないお話は尽きることがなく、今回も民芸の話、先生の若い時代の奥様との話など、本当に心和むひと時でした。

作品はさすが先生の長い歴史を語るに相応しい、力のあるものでした。若い作家の先生の作品も良いけれど、河井家に伝わる釉薬と技は豊かさで溢れていました。

展示会の前々日に荷物をほどきながら、えも言われぬ幸せ感に満ちていきました。

花染の2階にディスプレイを終え、眺めるほどに気持ちが優しくなり、是非たくさんのお客様がいらしてくださることを心より願いました。

花染のホームページをご覧いただき、ご遠方からお見え下さいました方々にも、深く感謝申し上げます。

河井久先生の作品は、花染の1階にいつもかなりの量、常設しています。

◆ 河井寛次郎と仕事 ◆

明治23年(1890)、安来市に、父が棟梁の家に次男として生を受けました。現・東京工大窯業科に進み、炎と出会うのです。卒業後、京都市立陶器試験所に入所。主として釉薬の研究に励み、後に「釉薬のことなら河井に聞け」とまで信頼されるようになります。「炎の詩人」と言われる基礎は、従来の陶工の“感”に頼った陶器製作に、科学的な新しい技法の開発を始めたところから始まるのです。そして、また、その試験所に入所してきた浜田庄司との出会いがあるのです。

大正9年(1920)、30歳で京都五条坂の現在の河井寛次郎記念館のある場所に、住所と窯を設け、「鐘渓窯」と名付けます。そして、第1回作陶展を高島屋(大阪)で開催。中国の宋・元・明の古陶磁器の手法を独自の感覚と化学の力で自由にこなし、空前の人気を得ることになります。彗星のごとく現れた至上まれなる才能をもった作家のスタートです。そして、これが後に柳宗悦、すなわち柳理論との出会いとなるのです。そして民藝美学の結晶としての日本民藝館の設立へと向かうに至るのです。次第に生活器具の美しさにひき込まれ、「用の美」に即した作品へと変貌していくのです。昭和5年40歳のことです。彼の作品が前期と後期に明らかに分かれる所以です。この大転換は後世いろいろな論じ方をされてきましたが、寛次郎はこういう道を歩く運命をもったのだと思うのです。

そうして日本民藝館は昭和10年(1935)、東京駒場に見事に開花しました。柳宗悦、浜田庄司との関係はあまりに深く永く、生涯の大半を共に送ったのです。彼の作品への尽きることなき想いは、晩年まで燃え続け、とどまることなく不定形な世界、木彫の世界へとより深みを増していくのです。

昭和30年(1955)、文化勲章への内諾もこれを辞退し、前後して人間国宝・芸術院会員の推薦も同様に辞退しています。生涯職人であることを誇りにし、「一介の工人であるべし」と作品に署名せず、箱書をもしなかった清々しい姿は、私たちの心をとらえて離しません。偉大な寛次郎を語るには私はあまりに未熟すぎるし、紙面に限りがあるのですが、私は彼の作品を前にするたび、寛次郎の人格全体の豊かさ、体全体で仕事にぶつかっていく姿の中に、本質的な人間の相違を見るのです。

平成2年(1990)、京都国立近代美術館において寛次郎生誕100年記念展が催されました。作品を前期と後期に分けた壮大なる展示でした。あふれる才能、もらった生命を燃やし、無我夢中で仕事に励み、信念を貫き、自然との調和をすべて受け入れ、「ものづくり」と「美への探求」に命を捧げた享年76歳(1966・昭41)の「土と炎の人」の偉大なる生涯です。

「ふるさと安来に贈られた河井寛次郎のこころ」参考

河井寛次郎記念館



扁額(棟方志功・黒田辰秋作)

京都五条坂、東大路を西へ一筋南側に入った所に静かにたたずみます。建物を前にしてしばらくは動けなくなります。看板の棟方志功の書は彼が寛次郎を師と仰いだ崇高なほどの落ち着きを見せるのです。師への想いを、そして深い愛情を、見る人の心に刻み、良き時代を偲ぶのです。

この地に住所と窯を築いたのは大正9年(1920)のことです。その後、昭和12年(1937)、台風で傷んだ旧居を解体し、日本・朝鮮の農家のもつ建築美を取り入れた自宅<現・河井寛次郎記念館>を自ら設計し、実兄・善左衛門を棟梁とする大工一行を郷里・安来より呼び寄せ、設工したのです。故郷の人々と自然をこよなく愛した彼らしい心情です。調度・家具に至るまで寛次郎の理念が満ち満ちて、彼の世界を作っているのです。

記念館としての開館は、昭和48年(1973)のことです。記念館の中庭の丸石は彼の宇宙観、そして調和の精神を次の世代に語りかけているように思うのです。いつも私はここにたたずみ、良き日、偉大なる、そしてそうそうたる人物達が集った日々を、また生き生きとした生活があったことを幻のように見るのです。

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